東田の生い立ち

戦後の東田は、田んぼと果樹園、小高い丘に雑木林が広がり、所々に瓦屋が点在しているのどかな田園風景といったところであった。今、国際通りといわれている水源橋線は、 赤土むきだしで、土橋からトヨタ本社まではほとんど建物はなかった。寿町2丁目で交差する豊田安城線は、狭い農道が走っており車もほとんどすり替わりができないほど細い道路であった。

当時東田は、土橋自治区に属していた。土橋から見て東の方向に位置して、荒れた田畑が多いという意味で「荒田の入り」とか「東の田」とか呼ばれていた。その頃の東田は、 瓦産業が全盛の時代で、この地域に約二十軒の瓦屋があり、市内でもトヨタ自動車を除けば、松平のガラ紡、加茂の養蚕と並ぶ市内でも有数の産業地帯であった。また、その瓦屋さんは、高浜など市外から移住してきた者がほとんどだった。

少しずつ人も増え、昭和29年には住民の努力で集会所も建てました。しかしそのことが原因で諸々の問題が発生したことにより独立の機運が高まり翌年の昭和30年に独立を果たしました。

現在寿町をはじめ五つの町にまたがる自治区となっています。

 


 

 

東田の地名

西加茂郡挙母町大字土橋字東田という小字名であったが、

昭和22年4月新たに挙母町13番目の大字「山之手」が制定された。

小字に緑町、丸山町、豊田西町、大徳町、山之手通、寿町、

瑞穂町、東土橋町、松影町、豊田本町など

近代的な名称の小字が10でき同年6月に登記が完了した。

その後「挙母市」になり昭和34年「豊田市」が誕生したとき

大字が廃止され、自治区名は「東田」町名は「寿町・緑ヶ丘」と

決定された。

町名と自治区名が異なる所は珍しい。